良寛と貞心尼

現在取り上げている曲、《良寛相聞》は、良寛(りょうかん)とその弟子、貞心尼(ていしんに)の相聞和歌をテキストにしています。

 

相聞とは、男女の相思の情を詠み合う歌のことです。良寛と貞心尼が交わした歌は、とても短いのに、躍動感にあふれ、情感に満ち、二人の心の動きが手に取るようにわかって本当に面白いです。良寛と貞心尼の出会いや、交わした歌については、ネットで調べるとたくさん出てきます。お勧めのページを載せておきます。

https://niigatakenjinkai.com/kouhou/?p=3754

《良寛相聞》のテキストに使われた歌もありますね。

 

さて、ここでは良寛と貞心尼がどのような人物であったのか、エピソードを交えて、二人に近付いてみようと思います。

【エピソードその1:何不自由ない生活からの出家】

 良寛は、1758年に越後(新潟県)出雲崎の名主、橘屋の長男(名は栄蔵)として生まれます。(モーツァルトが1756年生まれで同年代!)名主とは今で言う村長さんみたいなもので、領主の下で村政を担当する役目でした。家の格式が高くないと名主にはなれないんですね。そんな家でしたから、経済的に何の心配もなく、家を継ぐだけで将来の安泰は約束されているようなものでした。しかし、栄蔵は家督をあっさりと弟に譲り、18歳で出家し、隣町の尼瀬にある禅寺「光照寺」(写真)に入ってしまいます。

出家の動機は、 「奉行による盗賊の処刑に立ち会わされ、人の世のむごさ、命のはかなさを感じた」「代官と漁民の争いの仲裁の折、お互いの主張を正直に話すとますます問題をこじらせ失敗。人間が正直さを失ったり、人をだますことが賢いというのであれば、人が人でなくなってしまうと思った。」「奉行を怒らせるような大問題をおこした」といったようなことが伝えられています。

 

【エピソードその2:藩主からの士官を断る】

 良寛は、生涯寺を持たず、粗末な草庵に住み、名利にとらわれない托鉢の生活(僧が鉢をもって家々の前に立ち経文を唱えて米や金銭の施しを受ける)を送りました。当時から詩人・歌人・書家としても知られており、その威徳にひかれていた長岡藩主:牧野忠精はなんと良寛の住む草庵(五合庵)までわざわざ出向き、士官を願いに来ています。殿様が乞食坊主に会いに来る!これはすごいことです。しかし、良寛は藩主:牧野忠精の前で目を閉じ、いっさい口を開かなかったそうです。

忠精は、越後から老中になったはじめての人物で、学問だけでなく、和歌や墨絵にもすぐれた藩主だっただけに、良寛の気高い心境に敬服し、いたわりの言葉を残して山を下ったとのことです。忠精がこの時につくられたと思われる句に、「見渡せば 山ばかりなる 五合庵」が残っており、良寛の心を得られなかった無念さが感じられます。それに対し、良寛は「焚くほどは 風が持てくる 落ち葉かな」(私が庵で燃やして煮たきするくらいは、風が吹くたびに運んでくれる落ち葉で十分間に合うことだ。だから私にとっては、この山中での暮らしは物に乏しくとも満ち足りている)という句を詠んでいます。

 

【エピソードその3:心優しき良寛さん

・竹の子

写真は、良寛が40歳のころから20年間過ごした草庵(五合庵)です。(大正3年に再建)

五合庵は粗末なもので、広さは六畳、入口はむしろが下げられていただけ、床は土間に藁を敷いたありさまでした。

ある年の春、五合庵の脇の厠(便所)の床下に竹の子が生えてきて、床につかえているのを見つけ、かわいそうに思い、床に穴をあけてやったそうです。しかしそれがぐんぐん伸びて、今度は先が屋根につかえそうになりました。そこで良寛は今度はろうそくに火をつけて、屋根に穴をあけてやろうとしましたが、火が回って厠をみな焼いてしまいました。(爆)

・盗人に入られる

ある日、五合庵に盗人が入ります。しかし、盗むものが何一つないので、仕方なしに良寛が寝ている布団を取ろうとして、そっと引っ張りました。良寛は知らないふりをして寝返りをうち、盗人が布団を取りやすいようにしてやったそうです。その時に読んだ俳句が「盗人に とり残されし 窓の月」でした。(盗人は何の役にも立たない私のせんべい布団を持って行ったが、他に取るものもなく哀れな泥棒だ。ふと見ると盗り忘れられた月が窓に輝いている。こんなに美しいものに気づかずに帰ってしまったのか?私は月という宝を持っているのに)良寛のおおらかさ、博愛の精神がにじみ出ている句ですね。

 五合庵に盗人が入ったことは村中が知るところとなり「けしからん!」と大騒ぎになりました。そしてすぐに新しい布団がお布施されたそうです。良寛さんは村人に敬愛され、人気者でした。

 

【エピソードその4:子供好きの良寛さん】

・毬つき

良寛の持っている頭陀袋の中には、いつも45個の毬が入っていました。毬つきの腕は相当なものであったようで、良寛の行く所には、いつも子供たちが現れ、手毬にかくれんぼ、かごめ遊びなど、日が暮れるまで夢中で一緒に遊んでいたそうです。その様子は、この良寛の歌がよく表しています。

「この里に 手まりつきつつ子供らと 遊ぶ春日は 暮れずともよし」(この里で、手毬をつきながら、子供らと遊ぶ春の日。この一日はいつまでも暮れなくてよい)

 

 ・かくれんぼ

 子供たちとかくれんぼをして、良寛が鬼になりました。目をつぶり「もういいよ」という子供たちの声を待っていたのですが、夕暮れに近かったため一人の子供が黙って帰ってしまうと、他の子もそれに続いて皆帰ってしまいました。翌朝、同じ所へ子供たちがやってくると、なんと良寛はまだ両手で顔を覆ったまま、昨日と同じ格好でしゃがんでいました。子供たちの「もういいよ」を待ち続けた純粋無垢な良寛さん!人を信じることの素晴らしさを伝える逸話です。

 

・疱瘡(ほうそう)

ある時期、疱瘡 ー天然痘ー が流行り、子どもがたくさん死んだことがありました。嘆き悲しむ母親たちを見て良寛は心を痛め、涙を流しました。良寛にとっても、手毬をして一緒に遊んだ子供が次々に死んでいくのを見るのは、耐えられないほどの苦しみだったことでしょう。

子供を失った親の心に代わって良寛が詠んだ歌が残っています。

 「かいなでて 負ひてひたして乳ふふめて 今日は枯野に おくるなりけり」(愛撫して、背に負ぶって、乳を含ませて、養い育てた挙句、今日は枯野に葬送するものであるとは)

「人の子の 遊ぶを見れば にはたづみ 流るる涙 とどめかねつも」(他人の子供等の遊ぶのを見ていると、死んだわが子の姿を見るようで涙が溢れるように流れ出て、止めることができなかった)

 

悲しみに寄り添う、なんという優しさに満ちた歌でしょうか!

 

【エピソードその5:慈悲深き良寛】

 江戸時代には士農工商の身分が固定されていたわけですが、士農工商の下には非人という、さらに差別された人間以下と言われる階層もありました。良寛はこうした身分制度があることを快く思っていなかったようです。

 橋の下に暮らしていた非人の八助という人が水死してしまった時、良寛は悲しんで漢詩を作りました。おそらく良寛は生前の八助にも分け隔てなく接していたのでしょう。しかし、村人たちは、どうして乞食なんぞにありがたい弔詩など詠むのか?他の僧ならそんなことはしないと口々に言い合いました。

すると、良寛は以下の歌を詠みました。

「如何(いか)なるが 苦しきものと 問ふならば 人をへだつる 心と答へよ」

(どのようなことが見苦しいことなのかと問われたら、それは人を分け隔てし仕切りを作る心だと答えよ)

 

 また、水鳥でさえも、お互いが助け合っているのに、どうして人間は自分のことだけを考えて、困っている人を助けないのだろうという思いを詠った歌があります。

 「越路なる 三島の沼に 棲む鳥も 羽がひ交(かわ)して 寝るちふものを」

(越路の三島沼にいる鳥でさえ互いに羽を重ねて仲良く寝るというのに…)

 

 このような優しく慈悲深い良寛の歌の数々に、深く心を動かされている一人の尼僧がいました。貞心尼です。

その頃、貞心尼は長岡に住んでいました。長岡から良寛の住む島崎までは、当時は、舟で信濃川を渡り塩入峠を越えて丸1日かかりました(ちなみに現在は車で30分)。貞心尼は、あこがれの良寛に会いに行こうと心に決めます。これが良寛と貞心尼の物語の始まりです。文政10年(1827年)、貞心尼29歳の時でした。

 

【エピソードその6:美しき貞心尼】

 貞心尼は、1798年、越後長岡藩の鉄砲台士奥村五兵衛の次女として生まれ、幼名をマスといいました。17歳のとき、北魚沼郡小出島龍光寺(現堀之内町)の医師、関長温に嫁ぎます。しかし、生活も環境も合わず、しかも子無しであったため、5年後に夫の長温とは離縁になりました。

 傷心の貞心は、下宿村新出しでにあった閻王(えんのう)寺という尼寺で眠龍、心龍という姉妹尼の弟子になり剃髪します。そこで6年間ほど尼僧としての厳しい修行を受け、その後の1826年春、古志郡福島村(現長岡市福島)の閻魔堂に移りました。この時の事情については貞心自身何も書き残していませんから分かりません。おそらく柏崎在住中に各地を托鉢をしているうちに、書家や歌人として高名な良寛の存在を知り、少しでも良寛に近づきたいという気持ちがあったのではないかと推測されます。

 彼女が大変な美貌であったことは、彼女が後半生を過ごした柏崎で今でも広く語り継がれていますが、更に貞心の弟子で柏崎釋迦堂の庵主であった高野智讓老尼(当時77歳)の話によっても確かめることが出来ます。

7歳から20歳までの14年間も貞心尼の弟子だった人です。

「わしらが庵主さんほど器量のいい尼さんは、わしは此の年になるまで見たことがありませんのう。」

そう言って智讓老尼は更に心にその面影を思い浮かべるように靜かに眼を閉じながら、

「何でもそれは目の凛とした、中肉中背の、色の白い、品のえい方でした。わしの初めておそばに來たのは庵主さんの62の年の五月十四日のことでしたが、そんなお年頃でさへあんなに美しくお見えなさったのだもの、お若い時分はどんなにお綺麗だったやら…」

と話したそうです。

 

【エピソードその7:良寛と貞心尼の出会い】

 良寛は40歳から60歳まで國上山の中腹にあった五合庵に住んでいましたが、61歳の時に老衰のために山を下り、山麓の國上村乙子神社境内の草庵に移り、(お坊さんが神社?!笑)そこで10年間暮らしました。

 その後、良寛のことを心から慕う三島郡島崎村の能登屋木村元右衛門(島崎村の百姓代)が良寛のお世話を申し出て、良寛は最後の人生を木村邸内の離れの小庵にて過ごすことになります。

 貞心尼はというと、その頃は長岡在福嶋村の閻魔堂に暮らしていました。若く美しい尼がただ一人で、あの怖ろしい顔をした閻魔大王と共に、荒れ果てた堂内に住んでいる光景を想像すると、何とも言いようのない尊い感情に包まれます。

 貞心尼も良寛と同じやうに、生活は托鉢だけによって支えられていました。貞心尼のいた閻魔堂は、台所の道具にすら事欠くほどの貧しい堂で、村の者がそこでお講などを受ける時には、各自茶碗を手に持ち、箸を髪に刺してやって来るというような有樣だったそうです。

 良寛の教えを受けたくなった貞心尼は、自分で作った手毬を持って、木村家を訪れます。

しかしその時、良寛は留守でした。貞心は手毬と共に歌を残して帰ります。 

「これぞこの 仏の道に遊びつつ つくや尽きせぬ 御法なるらむ」(貞心) 

(良寛さまは、てまりが好きだと聞いておりますが、また、禅の高徳とお聞きしております。とすれば、てまりをつくのも良寛さまには、仏法なのでございましょうね)

 

貞心のこの歌に対し、良寛の返歌はなかなか来ませんでした。実は良寛はこのころ知人の家を訪ね歩き、長く留守にすることが多かったからです。しばらくのち、木村家の庵に戻った良寛は貞心の手毬と歌を受け取り、良い歌だと感心してすぐ返歌を送ります。

「つきてみよ一二三四五六七八九十十とおさめてまた始まるを」  (良寛) 

(あなたも仏法のてまりをついてみなさい。息を、一つ、二つ、---十と数え、また一つから始めます)

 

 これは、座禅の初心者が教えられる「息数観」(すうそくかん)だそうです。息に心を集中して、みだりに迷いや概念に振り回されないよう定力を養う座禅の基本です。

この歌で良寛は貞心尼を禅に誘ったのです。

 

この返歌を受け取った貞心は、またすぐに1日かけて良寛に会いに行き、ついに二人は出会いを果たします。

貞心尼はこの時の気持ちを歌で表しました。

「君にかく あい見ることの うれしさも まだ覚めやらぬ 夢かとぞ思ふ」(貞心)

(良寛先生に、このようにお目にかかることの嬉しさは、さながら覚めない夢のなかにいるかのようです。)

 

まるで憧れのアイドルに対面したファンのようなストレートな表現ですが、良寛は次のような返歌をしました。

 「夢の世に かつまどろみて 夢をまた 語るも夢も それがまにまに」(良寛)

(夢のような儚い世の中にあって、少しまどろみながら、夢を語るにせよ夢を見るにせよ、あるがままに。)

 

  「夢かとぞ思ふ」という貞心の表現を受けた一首ですが、貞心のストレートな想いに比べると、フワッとしたつかみどころのないところが良寛らしいと言えるでしょうか。「とにかく世の中、人生というものは夢のようなものだから、なるようにまかせましょうや」という年長けた者の力みのないやんわり感と、「うれしい!夢のようだわ!」という若い女性の力強い熱情、この対照がなんともほほえましいですね。

 貞心尼が来た日、二人は夜が更けるのも忘れて仏道について語りあったそうです。

 

 

[エピソードその8:良寛と貞心尼の出会いⅡ]

良寛と貞心尼の歌による心のふれあいは続きます。

二人は、歌や仏の道などの物語りを交わしているうちに、暮れやすい秋に日がとっぷり暮れて、やがて、冴えた月が中天にまで昇りました。月を眺め、歌を詠むうちに時がたつのも忘れ、一夜を語り明かしてしまうようでした。

相手はうら若き女性のことです。その帰途を案じる良寛さんは、あまりにも夜が更けるのが気になって、このように詠みました。

 

「白たへの 衣手さむし 秋の夜の 月なかぞらに 澄みわたるかも」(良寛)

(衣の裾が冷えるので、ふと眺めると秋の月が中天に澄み渡るようにのぼっている)

 

「向かひゐて千代も八千代も見てしかな空ゆく月のこと問わずとも」(貞心)

(良寛様と向かい合って千年も万年もいたいと思います。空の月のことなど問わないでください) 

 

いかに夜が更けようとも、貞心にとっては意に介するところではありません。彼女は、ただいつまでも、崇高で慈愛に満ちたこの老師と向かい合って語り続けたいばかりでした。

けっこう貞心尼は押せ押せですね。良寛もさぞたじろいだことでしょう。

 

心さへ 変はらざりせば はふ蔦(つた)の たえず向かはむ千代も八千代も」(良寛)

(心さえ変わらなかったら、二つのはう蔦(つた)は樹木にしっかり絡みつきますよ。千年も万年も)

 

「立ちかえり 又もとひこむ 玉ほこの 道のしば草 たどりたどりに」(貞心)

(そろそろ帰ろうと思います。再びここに訪れたいと思います。芝草の生えている野道をたどりながら)

 

「又もこよ  しばの庵をいとはずば すすき 尾花の露を わけわけ」(良寛)

(またどうぞ来てください。こんな粗末な住まいですが、おいやでなかったら露にぬれたススキをかき分けかき分け来てください)

 

 翌朝、貞心尼は名残を惜しみながら帰っていったそうです。